「あの日の神宮、そして今へ」上重聡さんが語る、完全試合と“諦めなかった記憶”
立教大学野球部の OB であり、現在はフリーアナウンサーとして活躍する上重聡さん(平成 15 年卒)が、「東京六大学野球 100 周年記念事業・レジェンド始球式」に登場した。神宮のマウンドに立つのは、実に 23 年ぶり。久々に袖を通した縦じまのユニフォームと共に甦ったのは、大学時代の記憶と、積み重ねてきた年月の重みだった。
「力んでしまって、ワンバウンドでした(笑)」と振り返る上重さん。しかし、その言葉には、どこか清々しさが漂っていた。「当時と比べて、マウンドが硬くなっていて、時代の移り変わりを感じましたね。でも、両サイドからの応援の声、あの風景だけは変わっていなかった。学生時代の自分を、ふと重ねました」
「完全試合」は、先輩との共闘だった
大学時代の最大の思い出を尋ねると、やはり「完全試合」のエピソードが語られた。
だが、その裏には“順風満帆”とはほど遠い葛藤と、仲間への思いがあった。2 年春にイップスを発症し、外野へ。投手としては一度“戦力外”を宣告される形になった上重さんは、秋にマウンドへ戻る。和田毅(当時・早稲田)との投げ合いを経て自信を取り戻し、4 年秋の引退試合で奇跡を起こす。
「完全試合をする予定なんて、なかったんです。自分は 6 回まで、7~9 回は他の 4 年生で継投する段取りでしたから」
しかし 8 回を終えた段階で監督に「降板させてください」と直訴。すると、こう返された。
「バカヤロウ。完全試合は 1 人しかできないんだぞ」
「送り出す餞(はなむけ)として、先輩たちに“感謝”を表してこい」
監督にそう言われた上重さんは、当時の先輩たちに頭を下げ、「行ってきていいですか?」と一人ずつに尋ねた。「『行けよ、やるからには達成してこい』。そう背中を押してくれたからこそ、あの結果がある」
あのマウンドには、「自分のため」ではなく「仲間のため」に投げた 9 回目があった。記録に残る完全試合。その記憶には、心からの感謝と、少しの申し訳なさが残っていた。
「十字架」と「もうひとつの道」
大学入学時、プロ野球選手を目指していた上重さん。しかし、完全試合を達成したあと、「その重み」に向き合い、進路を考え直すことになる。
「“松坂と投げ合った”という十字架でイップスになり、“完全試合をしたピッチャー”という新たな重荷を背負っていた。人は一度は跳ね除けられても、二度はなかなか難しい。野球を嫌いになりたくなかった」
それでも野球から離れることなく関わる道を選んだ。それが、アナウンサーだった。実は高校時代から、心のどこかで“第二の道”として考えていたという。野球と違う角度で関われる仕事。そこで、再び自分の役割を見出した。
「自分が表に立つというより、“人を活かす”という裏方的な視点。立教野球部で、控えに回って裏方として支えることを経験できたのが、今の仕事に活きていると思います」
後輩たちへ——「諦めなければ、チャンスはある」
試合前には現役選手の前で円陣の中心に立ち、自身の経験を語った。「野球を辞めさせてくれと両親に伝えた時、『最後までやり抜きなさい』と言われた。その言葉で最後まで続けたから、完全試合という“ご褒美”をもらえたと思っている。今の選手たちにも、そうあってほしい」
「4 年間、8 シーズンは長いようであっという間。試合に出られるかどうかは関係ない。“学生野球をやりきった”という経験が、社会に出てから必ず生きる」
その言葉は、結果を出せなかった部員にも、確かな光を与えるだろう。
多様な背景、重なる思い
自身の野球人生を語る中で、印象的だったのは「多様な価値観との出会い」という話題だった。
「甲子園に出た選手だけでなく、一浪してきた人や勉強で入った人、いろんなバックグラウンドの部員がいる。その中で、お互いを尊重しながら競い合うのが、立教野球部の魅力だと思う」
さらに現在のチームを「泥臭さが加わった、進化した姿」と評した。
「自分たちの頃は“スマートに負ける”こともあった。今のチームは、下から這い上がる力がある。野村くん(立教池袋→野手転向)とか、まさにそう。勝負にこだわる姿勢は、間違いなく新しい伝統になっていると思う」
そして最後に、今のチームへのエールをこう結んだ。
「戦力はある。必要なのは“魂”——ここぞで勝ちきる力。セントポール魂を胸に、ぜひ優勝をつかんでほしい」
文:東京六大学野球連盟活性化委員会 清永浩平(H23年卒)