「立教に来て、ほんまによかった」東京六大学野球 100 周年記念・“レジェンド始球式”登板:本屋敷錦吾さん(S33年卒)
東京六大学野球 100 周年記念事業の一環として行われた「レジェンド始球式」。
立教大学のレジェンドとして最初に登板したのは、昭和 33 年卒・本屋敷錦吾さん。
長嶋さん・杉浦さんとともに“立教三羽烏”と称され、キャプテンとしても彼らを束ねた本屋敷さんが、ふたたび神宮に帰ってきた。
登板直後のベンチで、本屋敷さんはおどけたように、こう笑った。
「ずっと肩なんて使ってへんから、そりゃボールも放れへんよ。できることならノーバウンドでいきたかったけどな……あかんかったわ、ハハハ。もう歳やなぁ。お粗末でした」
あたたかい笑顔と共に、飾らない関西弁。
だがその言葉の奥には、半世紀以上の時を経ても揺るがない、立教野球部への誇りと愛情がにじんでいた。
「立教ってどこや?」から始まった物語
「正直なところ、最初は“立教”って学校、知らんかったんよ」
関西・芦屋高校出身の本屋敷さんにとって、東京六大学といえば、慶應や早稲田の名前は耳にしていても、立教は馴染みのない存在だった。
「“あと 1 校ってどこや?”って感じでね。しかも、最初“立教=仏教やろ”って思っとった。そしたらキリスト教やった。チャペルもあって、牧師さん(ファーザー)もいて、そこがまた野球好きでな。ユニフォームの授与式があって、そのファーザーが名前を呼んで、一人ひとりに祈ってくれんねん。そういうの、初めての経験やった。あれは今でも、強く覚えてるわ」
高校時代、センバツ出場を懸けた秋の大会でも活躍していた本屋敷さん。立教のマネージャーが視察に来ていた縁もあり、声がかかった。
「芦屋の先輩は慶應に行く人が多くて、慶應の監督さんにも“お前、なんで来なかったんや”って言われたことある。でもな、言ってくれなきゃ、そら行かへんよ。“来い”って言ってくれたら考えたかもしれへんけど。まあ、そういう運命やったんやろな。今となっては、立教に来てほんまによかったと思ってる」
長嶋・杉浦と共に、“強かった立教”
「当時の立教は、そらもう強かったよ。杉浦に長嶋がいたからね。すごいメンバーやった」
長嶋茂雄さんが立教に入学したのも、ある偶然がきっかけだったという。
「選手をスカウトしに試合を観に行ったマネージャーが、たまたまその前の試合を見てて、そこで長嶋がセンターオーバー打ったらしいんや。当時の学生野球は、引っ張ってホームランっていうのが普通。センター方向にあんな打球飛ばすやつ、おらんかった。そんで『あいつ、獲れ!』ってなったみたいでな」
並み居るスターの中にあっても、本屋敷さんはキャプテンとしてチームを引っ張った。その軸には、確かな信念があった。
「手を出さんでも、言えばわかる」——言葉で導くキャプテン像
「当時は指導が今と全然ちゃうかった。戦争から帰ってきた人たちが指導者側にもおったからな。命がかかる場面で、即座に止めなあかんっていう感覚が染みついとる。防空壕くぐるときに頭上げとったら死ぬ、みたいなもんやからな」
その“体で止める”スタイルが、野球の指導にも流れ込んでいた。
「せやけど、ボクは違うと思った。野球は命がけやない。18 にもなったら、言うたらわかるやろって」
だから、自身がキャプテンになったとき、チームにはっきり伝えた。
「“手ぇ出すな”って。あいつらはわかっとる。言えばええんやってな。ボクはそういう風にやったつもりや」
ただ、唯一の例外もあったという。
「ある選手が危ないプレーしそうになってな、それを止めようとした後輩が、とっさに手を出した。聞いたら“このままやったらケガすると思ったから”って。それはしゃあない。命を守る行動なら、納得できる。でも、それ以外は絶対にあかんと、そこは徹底した」
当時の砂押監督も「怒ることはあっても、理解のある人やった」と振り返る。
“今やってる人が創る”、それが立教らしさ
「“立教らしさ”っていうのは、今やってる人がつくっていくもんや。ひとつひとつのプレーの積み重ねで、自然と“らしさ”になっていく。それが伝統やと思う」
学生時代は銀座に映画を観に行くのが楽しみだったという本屋敷さん。
今なお東京六大学への愛着は深い。
「東京六大学は入れ替え戦がないからええんや。毎回同じ六校で優勝を争うから優勝の価値もブレない。東大がいるのも大事。あれがあるから面白いんや」
「あんな人になりたい」、そう思わせてくれる背中
立教のユニフォームに身を包み、ふたたび神宮の土を踏んだ本屋敷さん。
その背中には、“語って導く”という信念が変わらず刻まれていた。
あの時代、あのメンバーの中で、キャプテンとして何を選び、どう在りたかったのか。
そこに宿っていたのは、単なる強さではなく、“人としての在り方”そのものだった。
本屋敷さんの言葉は、時代を超えて、今を生きる私たち後輩の心に届いている。
文:東京六大学野球連盟活性化委員会 清永浩平(H23年卒)